一遍上人

(1239〜89)

時宗宗祖

年 譜

西暦 一遍 鎌倉時代の世相
1239 伊予国(四国道後)で生誕
1248 母と死別、10歳で出家
1251 13歳のとき、九州の浄土宗西山派に入り浄土教を学ぶ
1253 日蓮、日蓮宗開宗
1263 父死去、故郷に帰り妻帯
1271 33歳で再び出家
1274 熊野本宮で啓示をうけ他力念仏の奥義を悟る。『南無阿弥陀仏』と唱えお札を渡して念仏を広める為遊行賦算(ゆぎょうふさん)を始める
1274 蒙古襲来(文永の役)
1279 このころ善光寺で最初の踊り念仏を始め全国を遊行
1281 蒙古襲来(弘安の役)
1282 片瀬の地蔵堂で4ヶ月以上踊り念仏 日蓮没
1289 51歳、摂津国の観音堂で臨終
1333 鎌倉幕府滅亡

他力念仏の奥義・・・「衆生が浄土に往生することは、すでに阿弥陀仏が法蔵菩薩と名乗っていた昔に誓った本願によって決まったことで、いまに始まったことではないのだから、善悪を問わず、浄、不浄を選ばず、さらに信、不信を論ぜず、名号を称えれば必ず往生することができる。ゆえに、縁ある者には念仏札を配るように」

遊行賦算・・・念仏札を配って念仏勧進に巡り歩くこと。この念仏札を手にすれば、誰でも阿弥陀仏のはからいで極楽浄土に往生できるという。北は奥羽の江刺から南は九州の大隈まで、遍く全国を遊行。

踊り念仏・・・どんな人間でもありのままで救われるという喜びを踊りに表現したもので、民衆の間に爆発的に広まった。盆踊りはこの踊り念仏がもとだといわれている。

片瀬の地蔵堂・・・神奈川県藤沢市片瀬3−7(江ノ島駅より徒歩5分)に碑が立っている。

――― ここからは解説ではなく私の妄想 ―――

念仏勧進の遊行

念仏を唱えお札をわたして布教してまわる
より効率よくお札をわたして布教するには多くの人が集まっている所のほうがよい
多くの人がいても念仏を聞いてもらいお札を渡すのが一人ずつだと効率がわるい
念仏を聞く人だけを一堂にあつめるのが一番効率がいい

踊り念仏を考え出した

コーラスがいる、できれば女性がいい
女性も往生できる事にしよう
そうすれば見物人に女性も来て集る人は二倍になる
尼僧んに会いたさ見たさの男も押しかる

みんなに集ってもらい、一緒に踊って楽しんでもらってお札を渡す
だが名も無い行乞の坊主集団、人を集めるのもたいへんだ
なんとかしなくては

ある時、北条時宗の動向を聞きつける
野垂れ死にするくらいなら一芝居打とう
阿弥陀さんがついているんだ 殺される事も無かろう
かくして
時の権力者北条時宗一行と一悶着をおこし 忽ち名は知れ渡り人気者になる

反権力のスター 民衆のスターだ 

なによりスターは踊り唄うものだ

スキンヘッドの念仏興行だ

踊り念仏

 たとえばこうだ。1(ひー)、2(ふー)、3(みー)、みんないくよ〜!組み上げられた舞台のうえで、尼僧達が念仏を唱えながらゆっくりとまわり始める。一定のリズムで念仏を唱えているうちに体がリズムに慣れて 心地よさがこみ上げてくる。それにつれていつの間にか手をたたき足を踏み鳴らし始める。焚いていた香が舞台を覆い尽くし客席にも流れている。いつのまにか木魚の音に強弱がついている。念仏にも抑揚がつき徐々に感情が昂ぶっていく。ビートが早くなる。頭をふり体をゆすり、飛び上がり、奇声を発する。イェー!見物人たちも次第に興奮してくるといよいよ佳境に入る。尼僧たちの僧衣の裾が跳ね上がり、下着など無い時代、 あられもない御姿になっている。だが陶酔状態の尼僧達はおかまいなしだ。修業であり布教活動であり資金集めにもなる。なによりも、ありがたいお念仏を人々に聞いてもらえることができる。そう思い全ての自己抑制をかなぐり捨てて踊り念仏に集中する。無欲無心の境地。 浄土往生の瞬間だ。一遍が絶叫する。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、みんな愛し合おうぜ!イエーィ」

 最後には踊りうたい(となえ)ながらすでに一体と化している見物人の中に下りていき、『南無阿弥陀仏決定往生六十万人』のお札を配りお布施をいただく。

相手は艶かしい尼僧だ。おいら持ち金全部あげちゃうぜ!

(注・現在行われている踊り念仏は 、厳かな宗教儀式であり、上記の私の妄想のようなものではありません。)

一遍てなんと魅力的なんだろう


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清浄光寺(遊行寺) 時宗