親鸞

(1173〜1262)

 

年 譜

西暦 年号 年齢 事項
1173 承安3   4月1日、日野の里(京都宇治)に日野有範、吉光(きっこう)の長子として生まれる。
日野松若丸
    父、有範没す
    母、吉光没しみなし子となる。叔父の藤原範綱卿の屋敷にひきとられる。
  養和1 3月15日 本人のたっての願いにより京都東山青蓮院を訪問
3月16日 当時のおきてとして、15歳以上だったが、9歳で特別に得度。法名、範宴小納言
比叡山無動寺に入り天台の修行(比叡山は当時学問の山として恵まれた学問環境にあり、前途有望な秀才の一人になる。)
    19 9月13〜15日 河内の国磯長(しなが)の聖徳太子の墓に3日間参篭断食。2日目の夜太子が出てきて「後10年あまりの命(注@)」と告げる
    25 東山聖光院の門跡となる
    26 赤山明神の奇瑞「佛の慈悲の前に男女の別のあるはず無し」

頂妙寺六角堂に百日参り(太子建立)
95日目に観音様の声「念仏の行に勝るもの無し」 参篭の途中、旧師の聖覚法印にあい、当時学徳第一といわれた法然の事を聞く

    29  法然(1133〜1212)に弟子入り、「南無阿弥陀仏」と出会い、名も綽空と改める。太子の告令より丁度10年目であった。
    法然の弟子照禪(さきの関白、藤原兼実公)のたっての頼みにより、姫の玉日と結婚(注A)
1207 承元1 35 念仏停止(ちょうじ)の勅令 (注B)
  承元1 35

法然76歳の時土佐へ流罪、高弟4人が死罪。法然、親鸞を含め8人が流罪。親鸞は、3月16日、僧籍をはがれ俗人として藤井善信と改めて越後の国府 (新潟県上越市)に流される。

      非僧非俗(注C)の立場を表明し今までの修行生活から、伝道の旅が始まる。
 

越後の国府、鳥屋野で念仏を教化
愚禿あるいは親鸞と名のる (注D) 「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」
郡司より平岡に家を貰う
恵信尼との結婚

1212 建暦1 40 39歳の時赦免、善光寺へ参詣、100日間堂照坊に逗留
(興正寺寺伝によるとこの年京都へ帰り山科に興正寺建立)
    42 常陸笠間郡稲田郷に移り約10年玉日、子(善鸞)と住む。以後、関東地方で約20年間教化活動
  元仁1 52 稲田にて「教行信證」草稿を書き上げる
1225 嘉禄1 53 高田に専修寺建立
    稲田で玉日没
  貞永1 60 京都へ向けて発つ
    63 8月 京都へ入る
1262 弘長2 90 11月28日 御入寂  
1876 明治9    太政官より見真大師の諡号をおくられ、以後浄土真宗は国策にそい戦争協力をすすめる。
2001 平成13    教団の戦争責任を認め、国策に追従した歴史を反省し、7月1日より大師号の使用を見合わせる事を決定(大谷派)「朝廷の弾圧に屈せず信心を貫いた宗祖親鸞聖人をしのぶのに、歴代朝廷が高僧に与えてきた大師号はふさわしくない。」

著作

「教行信証」6巻、「唯信鈔文意」「浄土文類聚抄」「愚禿鈔」

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