稲荷大明神(稲荷神と荼枳尼天)


◎ 「稲荷」って?
 豊穣(農耕)の神。語源は稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。「稲生」や「稲成」「伊奈利」とも表記する。

◎ 「稲荷」というのは特定の神の名称では無い。
 稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主な祭神とします。伏見稲荷に行った方はご存知でしょうが、すごい数の稲荷社がありその祭神は数知れず。その祀られているところを「稲荷」と考えたほうがわかり易いでしょうか。「稲荷」の神は、もともとは穀物・農業の神、現在では農業・商業・産業全般の神として信仰されています。
 お稲荷さんといえば「狐」を思いうかべます。狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅4年(711年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まります。「稲荷」「三狐神」は「サグジ」とも読みます。神道系神社では朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとなっています。

◎ 稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社(京都市伏見区)とされています。元々は京都一帯の渡来系豪族・秦氏の氏神でした。

◎ 記録に残る日本最初・最古の稲荷神社は『糸我(いとが)稲荷神社(和歌山県有田市糸我町中番329番地)』。伝記古文書「糸鹿社由緒」が残っている。

 第二十八代宣化天皇の御代に当所より約12丁南西に当る通称宮山と云う高山に社を創って大神を祠り、稲葉根社と称した。
 第三十六代孝徳天皇の白雉3年(652年)参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。
 紀伊國糸鹿に降臨されたあとの第四十三代元明天皇の和銅年間に再び山城國三ツの峯(伏見)に降臨されたことを聞召された帝は、すでに糸鹿に創建されているため後世に判るように伏見の地名を紀伊郡深草とされたという。
 文化7年(1810)当時の神官、林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」があります。その中で糸我社の創建は「37代孝徳天皇白雉3年壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあり、白雉3年とは伏見稲荷神社の和銅年間の創建より約60年も前に遡ります。御祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、土御祖神(つちのみおやのかみ) 大市姫命(おおいちひめ)。


仏教寺院の祀っている稲荷の多くは荼枳尼天を御神体としています。

荼枳尼天(だきにてん)
荼枳尼=梵語ダーキニーを音訳

(インド)
 ダーキニーはインドのヒンドゥー教の神で、人間の心臓が好物で血肉を食らう女鬼・夜叉女。。

 初期密教では、羅刹女の類であり、ダーキニーの害を除くための呪文などが説かれている。

 中期密教では、大日如来(毘盧遮那仏)の化身の大黒天が屍林で荼枳尼(種族・集団)を召集し、降三世の法門によってこれを降伏し仏道に帰依させた。死者の心臓であれば食べることを許可され、「キリカク」という真言と印を荼枳尼に授けたとされる。荼枳尼は死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとってこれを食べるといわれる。

 後期密教においては、裸体で髑髏(どくろ)などを持つ女神の姿で描かれるようになっていった。ダーキニーは修行では中心的な護法神であり、行者は智慧の象徴であるダーキニーと交わり、性行為による刹那的な快楽を、仏の境涯に至る倶生の大楽にまで高める。

(日本)
 仏教(密教)とともに中国に伝わっていた荼枳尼を、空海(774年ー835年)が日本に持ち帰る(806年)。胎蔵曼荼羅に閻魔天の眷属の荼吉尼衆(ダーキニーはもともと種族・集団の名)として半裸で血器や短刀や屍肉を手にする姿が描かれている。空海が日本に伝えたのは中期密教のダーキニーである。
  都が平安京に遷されると(西暦794年11月22日)、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、秦氏の各地への勢力拡大により稲荷神社が各地に造られるようになる。 弘仁14年(823年)、空海は東寺を賜り、真言密教の道場とする。東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになる。
江戸時代元禄3年(1690年)に刊行された『仏像図彙』
土佐将曹紀秀信 画(土佐というのは名字で大阪の人)
稲荷大明神の図画に「山州紀伊ノ郡 大同年 弘法大師東寺創立ノ時門前ニ来現シ玉フ」とある。
『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。

 東寺では、真言密教における荼枳尼に稲荷神を習合させ、真言宗の全国への布教とともに、荼枳尼の概念も含んだ稲荷信仰が全国に広まることとなる。時代とともに、荼枳尼の形像は半裸形から白狐にまたがる女天形へと変化し、荼枳尼”天”と呼ばれるようになる。狐は古来より、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている。

 奈良時代より神仏習合がはじまり、平安時代には本地垂迹(ほんじすいじゃく)が唱えられる。本地垂迹説というのは、釈迦が「大沙明神」として現世に現れたように、インドの仏(如来)や菩薩(本地)が日本の神(あるいは天皇)の姿をとって(権現・ごんげん)日本に降臨(垂迹)したとする思想。仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により神に菩薩号を付すに至る。例「八幡大菩薩ー応神天皇(誉田別命)を祀る」。稲荷大明神も日本の民を救済するために現れた仏教の仏(ダキニ)の化身であると考えられるようになった。

 鎌倉時代から南北朝時代にかけて、真言密教立川流という密教の一派は、荼枳尼天を祀り髑髏(どくろ)を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされている。インド後期密教の日本への伝来、立川流への影響については不明。立川流は興隆を極めるが、時の権力に弾圧され衰退する。

 近世になると荼枳尼天は、伏見稲荷本願所(愛染寺)、豊川稲荷(妙厳寺)、最上稲荷(妙教寺)、王子稲荷(別当 金輪寺)のように、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として信仰される。俗に荼枳尼天は人を選ばないといわれ、誰でも願望を成就させると信じられたため、博徒や遊女、被差別階級等にも広く信仰を集めた。

明治元年(1868年)3月28日の神仏判然令
神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)

 明治政府は「王政復古」「祭政一致」実現のため、神道国教化を図り、神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。これをきっかけに地方の神官や国学者が扇動し、全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、寺院や仏具の破壊が行なわる。この蛮行によりたかだか数年のうちに日本の貴重な文化財が悉く破壊されることになる。
 日本政府は神道国教化ため神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。
 「明神」号はこの頃には仏教関連用語であると見られており、使用する神社は減少していった。
 伏見稲荷愛染寺は廃寺となり、伏見稲荷で荼枳尼天を祭祀することは途絶えた。また荼枳尼天を祀っていた稲荷社の多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となった。しかし奇跡的に豊川稲荷や最上稲荷など神仏分離を免れた寺院もある。相国寺(臨済宗) 塔頭の金閣寺も荼枳尼天を祀っている。

荼枳尼天ご真言 オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ

日本三大稲荷

伏見稲荷大社
豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)(愛知県豊川市)- 豊川吒枳尼眞天
最上稲荷(最上稲荷山妙教寺)(岡山市北区)- 最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天
(補足)
「日本三大稲荷」の後に神社をつけて「日本三大稲荷神社」として神社に限定すると、当然前出の「豊川稲荷・最上稲荷」はお寺ですから外れるわけで、伏見稲荷大社以外に下記の神社の中の2社が入ることが多いようです。
祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)
瓢箪山稲荷神社(大阪府東大阪市)
草戸稲荷神社(広島県福山市)
笠間稲荷神社(茨城県笠間市)
鼻顔稲荷神社(長野県佐久市)
千代保稲荷神社(岐阜県海津市)
 

≪参照 ウィキペディア 近代デジタルライブラリー 有田市HP 和歌山県神社庁HP≫

(C) B.E2559/02/26/作成 bukkyo.net

 

世界平和祈願 皆共成佛道

佛教 総目次

寺院名総目次